『心の壁 愛の橋』
どこの中学校でもあるのかどうか知らないが
うちの子ども達が通っていた地元の公立中学校では
3年生になると文化祭でクラス単位の演劇発表会があった
3クラスの間で順位もつけるコンクール形式なので
良い評価がもらえるようにとみんな結構頑張っているらしい

息子は演劇にはまるで興味もないため
一応照明係になって普段の練習はサボってたようだけど
娘はわたしに似たのだろう
台本を選ぶ段階から関わっていて、役者と音響係も担当していた

で、当時、娘の話をききながら
その台本を選ぶ段階でわたしはちょっと疑問を抱いたことがある
それは、テーマ範囲が狭いのでは?!というものだ
当日の評価は先生が担当するため、自ずと先生受けしそうな題材が毎年選ばれる
そしてその受けの良いテーマとはいつも「命」や「死」なのだ
昨今よく話題になる「命の尊さを学ぶ」という目的なのだろう
それで劇の内容はといえば
たいていが戦争ものか、もしくは不治の病の子どもの話だったりする
人の死を通して命の大切さを知ろうというのは確かにストレートな方法だけど
それだけで本来の目的が本当に達せられるのだろうか?

「戦争」とか「身近な人の死」というのは残酷で辛くて悲しいものだ
だが、それはあくまでも本当に体験した人だけが実感する感覚であり
まだ周りの人の死も経験していない子どもにとっては
所詮、遠い世界の話だろう
わたし自身も15歳のときに父親が亡くなるまでは
自分の親が死ぬなんてことはありえないと思っていた
自分自身についても、あるいは親や身近な人々についても
そういう人だけはいつまでもいることが当たり前だと信じていたのだ

頭で理解する死と、体や心で感じる死は別物だ
だから、人は誰でもいつかは死ぬと理屈だけはわかっていても
自分や近しい人の身の上にそれが起こる時には「なぜ自分だけ?」と思ってしまう
誰にでもあって当然のことなのに「なぜ?」と思うのは
それが自分にとって遠い世界の話だからだ

それで、もし教育の一環として演劇を取り入れるのであれば
テーマはもっと子どもたちにとって身近なものの方が効果的じゃないかなあと思う
たとえば先日書いた『人間ぎらい』なんかのような恋愛ものは
単純に自分の生活にスライドさせやすいし
極端な人物像を通して
人と人との関わりが客観的に面白く学べそうな気がする
特に今の子どもたちは早い段階から異性に対する意識が発達しているので
たとえ350年前の古典作品であっても
演出次第で漫画を読むように受け入れやすいと思われる
こうして
きれいごとではない現実の人間関係をしっかり把握することこそ
人間の相互理解や平和につながっていくのではないかと思うのだ

演劇をやっていて面白いのは
自分とは全然別の人格に感情移入することで
その人物の良さや欠点を冷静に分析し
“こんな性格はいやだねぇ”とか、“ああ、わかるなこの人の気持ち”とか
色んな人間を実感として理解できるところだ
これは、ただ物語を読んで、あらすじを頭で理解するのと違い
“心に感じる状態”なのだが
頭で理解したことが心に感じられるためには
自分の上に無理なく自然に重ねられるテーマでなくてはと思う
それは、いわゆる、“物語・言葉が心の中に生きる”という感覚だ

心と体は特に何をしなくてもつながっているとの実感がある
心が病めば体も病気になり、心が健やかなら体調も良いという傾向がある
だが、頭で「冷静に!」と信号を出した時
そのまま自然に心が落ち着くものだろうか
“わかっているけどやめられない” “自分を変えたいけれど変われない”
頭と心の間にはどうやら見えない壁があるらしい

学校は子どもたちの心を「死」から「生」へと向けようと懸命だが
どうも歯車が上手くかみ合っていないのは
頭で考える理屈の教育の枠からなかなか出られないからだろう
遠い世界の話で「死」を止めようとするよりも
身近なテーマで「生きる」ことを具体的に教えることが自然なのではないかとわたしは思う

今の政治に対して国民の多くが抱いている不満は
政治が国民の生活に直接生きていないという実感によるものだろう
頭の良い人たちが集まってあれだけ議論しながらも
国民の生活に生きない言葉では実に空しい

今回のタイトル『心の壁 愛の橋』は
ジョン・レノンが1974年に発表したアルバム『Walls And Bridges』の日本語タイトルだ
当時は別になんとも思わなかったけれど
今はこのタイトルの言葉が心に響く気がする

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日々の暮らし | 23:25:47 | Trackback(-) | Comments(2)
人間ぎらい
『善か悪か』シリーズを書いていて
ふと高校時代に演劇部でやったモリエール作「人間ぎらい」の劇を思い出した
これは17世紀フランスの社交界を舞台にした恋愛喜劇だが
時代背景は350年も昔なのに
そのまま現代にスライドしても不自然じゃない人間模様が面白い
それで、当時衣装を簡単にすませたいという理由もあったことから
内容をすべて現代バージョンに置き換えたシナリオを作り、文化祭にて公演した

主人公アルセスト君はまじめで優秀で人を裏切らない信頼のおける人間なのだが
そのどこまでも正義を追求する姿勢はもうとんでもなくストレートすぎて危なっかしい
心にもない言葉を口にすることは絶対悪だ!と言いはり
「じゃあ、女性に向ってその服のセンスはひどいですねとか、その化粧はケバイよとか言うのか?」と、
彼の親友フィラント君が呆れて問えば
「そうだ、真実をそのまま言うのが正しい」と何のためらいもなく返す
それどころか、適当に周りとは波風立てずに上手くやっているフィラント君に腹を立て
「心にもないその言動が許せん!お前なんかもう友だちでも何でもない!!」とキッパリ絶交宣言
その頑固さ加減にうんざりしつつも、それでも放っておけないフィラント君
よせばいいのに、アルセスト君があちこちで起こす騒動の解決には
裏で彼がいつも奔走する
うーん、男の友情は熱いねぇ?!
まあそれほどアルセスト君には良い所がいっぱいあるのだろう
実際に、彼のこの真面目さを男らしいと惚れているお嬢さま方も多々あり
その中のひとりエリアント嬢はアルセスト君のことを心から心配して
フィラント君とたびたび彼のことについて話していた
で、実のところフィラント君、このエリアント嬢に惚れている
でも、彼女はフィラント君には目もくれずアルセスト君に夢中
それでもって、当のアルセスト君はといえば
エリアント嬢の従姉妹にあたる美女セリメーヌ嬢にぞっこんなのだった
ところがこのセリメーヌ嬢は前代未聞の浮気女
男とみれば誰にでも甘い言葉をささやき
「愛しているのはあなただけ~」とみんなにラブレターを出しまくる
まさに愛のバーゲンセール、恥も外聞もなし
それでもって、それぞれの男性の前では別の男性の悪口言いたい放題
こんな性悪女に惚れるって
アルセスト君、普段言ってることとやってることが矛盾してないかい??!!
なんてフィラント君に詰め寄られてひとこと

「理性は恋を支配するものではない」・・・・・あーそーですか、、、(呆)

さあ、人間関係が複雑になってきたのでおさらいです
今まで出てきた4人の男女の恋の相関関係は以下の通り

フィラント(現実派男)→エリアント(誠実女)→主人公アルセスト(潔癖男)→セリメーヌ(不実女)

なんかもう、悲しいほどの恋の一方通行だ
中でもフィラント君の悲しさは群を抜いている
他の3人は自分を想ってくれている人がいるのに(本人は気づいていないが)
彼だけ全然むくわれない

えーと、実はわたしが当時やった役はこのフィラント君なのだった
え?フィラント君て男でしょ??・・・そうそう、うちは女子高ですからね
それに当時も今も「女の子度数」の低いわたしにはお嬢さまの役はとっても無理
というわけで、わたしはいつも男を演じていたのでした
(注:宝塚のファンとかでは全くありません。何しろ趣味はハードロックと戦闘系だし)
でも、ものすごーく意地悪なおばさんとかだったら女役もやりたい(笑)

で、このフィラント君
自分の恋も大事だけど、男の友情も捨てられない
アルセスト君にはあのセリメーヌ嬢なんかさっさとやめて
誠実なエリアント嬢と幸せになってほしい・・・
なーんて、絶対本心じゃないよね!と心で突っ込みいれながら演じるわたくし
お前なにいい人やってるんだ?!とばかり、演じる方もだんだんイライラ

さて、すっかり「恋は盲目」状態のアルセスト君は
ある日セリメーヌ嬢が別の男性に当てて出したラブレターを入手する
曲がったことは断じて許さん!!!と
かたくななまでに自分の潔癖主義を貫いてきた彼もさすがに落胆し彼女に詰め寄る
しかし、彼女の巧みな口車に乗せられてトーンダウン
それに、自分の潔癖さの裏にある抑えのきかない愛情の方がまさり
やはり彼女があきらめられない

そこへ今度は別の男性たちがどやどや踏み込んできた
彼らもそれぞれ自分に当てたセリメーヌ嬢からのラブレターを手にしていて
いったいこれはどういうことかと説明を求めにきたのだ
さあ、その場はたちまち修羅場と化す
言い訳のできないセリメーヌ嬢
乗り込んできた男たちは事実関係を知り、呆れて去っていく

こうして舞台中央にはアルセスト君とセリメーヌ嬢が残った
そして、端っこではその様子をフィラント君とエリアント嬢がじっと見守る
さすがにやりきれない表情でアルセスト君にあやまるセリメーヌ嬢
「他の人が怒るのはなんとも思わないけど、あなたには悪いことをしたわ」
ここへきてまだ「あなただけ特別よ」オーラを出す彼女
でも、彼女は別に相手がアルセスト君じゃなくてもこう言うのだろう
それが彼女にとっては自然なことだから・・・

さあ、そんな彼女に対するアルセスト君の反応はいかに?!
いやもうこれだけ現実を見せつけられれば
さすがの彼も愛想をつかすだろうと思ったら大まちがい
彼はそれでもセリメーヌ嬢に愛を告白するのだ
「恋は盲目」ここに極まれり!!!(激呆)

この様子にショックを受けたのはエリアント嬢だ
目の前で想い人の告白を聞いて思わずおよよとよろめき
側にあったピアノにすがる・・・
と、ここで予定外のことが起きた
実は練習の時にはいつもピアノのふたはしまっていたから
彼女はふたの上に手を置くのが習慣になっていた
ところが本番ではふたがあいていたのだ
あ、っと思って手をずらそうとしたが一音だけがポーンと響く
とたんに場内の視線が中央から端っこに移ったのを感じた
うわ、やばいなー、ここから先は目立たないようにひっそりやる予定だったのに
これじゃあいきなり注目の的じゃん?!(滝汗)

さて、
ショックのあまりその場に崩れそうなエリアント嬢の側にさりげなく近寄り
その手を取るフィラント君(←「こっちにおいで」オーラ全開)
人は悲しい時に優しくされると、ふとその相手に心を許すものだ
それが一気に恋心にまで発展することもある
で、彼にすがりついて泣くエリアント嬢
千載一遇のチャンスとばかりちゃっかり彼女をさらっていくフィラント君
え?男の友情はどこいった??!(爆)

図らずも目立ってしまったこの物語中唯一の幸せカップルは
会場のどよめきから逃げるように退場~~(汗・汗・汗
その後友人たちから「あのピアノの演出はよかったよ」と言われ
そんなもんかねと、ちょっと安心するやら恥ずかしいやら、、、、

こうして最後にフィラント君が幸せをつかむ一方で
アルセスト君は結局セリメーヌ嬢と破局する
元々この二人には善悪の価値観に接点が乏しく
アルセスト君はセリメーヌ嬢に対して自分に合わせてくれるようにと願うが
彼女には自分の生き方を変えるつもりがなかった
そもそも、彼女は彼女の生き方が悪いとは思っていなかったのだから

そしてすっかり人間ぎらいになったアルセスト君は
自暴自棄になり、世捨て人になると言い出す・・・

*****************

以上がわたしの覚えているだいたいのあらすじで
原作はもっと内容が複雑だったはずだが
わかりやすく「愛の劇場風」に書いてみた(笑)

あらためてこの作品をふりかえると
何かこう人間不信に陥った時には
暗くて難しい話よりもこういう喜劇の方が益になるかもしれないなあと思う
主人公の極端な人物像を通して
善を追求しすぎるのはヤバイなとか
人が人間ぎらいになる原因は自分自身にあるんじゃないかとか
もっと自分に素直に生きたいねとか
まあ、いろいろ自然に考えさせられる
とりあえずこの手の生き方は
まるで細い道をつま先で歩いているように不安定だ
ひたすら自分の善を信じているものの
一旦バランスを失うとたちまち思わぬところに落ちていく

一方、結果的には実に”美味しい役”のフィラントは
彼なりに誠実に生きているけれど、その歩む道幅が広い
人間関係を円滑にするために嫌いな人とでも努めて普通に接するし
必要に応じて嘘だってつく
まあ人間なんてこんなもんだろうとあきらめてもいて
その辺をいくらアルセストに批難されようが、仕方がないと割り切っている
そんな生き方は、ズルイとも言えるし、大人だともいえるだろう
現実社会では昔も今も彼のような生き方が最も常識的だ

そして、最後に意中の人をゲットしたのも
また、初めからその女性の誠実さを認めていたことも
彼のそういう幅の広い、心に余裕のある生き方によって生み出される冷静さによるところが大きいと思う

ただ、アルセストは極端な人だけど、彼はある意味とても純粋だったのだ
彼は人間が上っ面ではなく心からつながるべきだと願っていた
自分の心の奥底をそのまま表すことでそれができると信じたのだった
滑稽だけど、気持ちはわからなくもない
でも、自分を信じすぎることはやはり危険だ
結果がそれを物語る

日々の暮らし | 20:27:27 | Trackback(-) | Comments(2)
初釣果
夫の今年の釣りはじめは先週だったが
その時は思うような釣果が上がらなかったので
これならいいでしょう~と納得した昨夜の釣果を「初」としよう^^

「ちょっとカサゴに会いに行ってくるわ」との言葉通り
ちゃんとカサゴメバルを大小あわせて15尾釣ってきた

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それと、今回の大きな収穫は何と言ってもこの30センチ超えのカレイだろう
カレイを釣ってきたのは十数年ぶりじゃないかしらん?!
朝が苦手で朝食を前にボーっとしていた娘にこのカレイを見せたら
おぉぉ~~~っ!!っと目を見開いてたちまち元気になった♪
無類の魚好き(特にお刺身)の娘には最高の目覚ましとなったようだ

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このヘビみたいなのと、ゴツゴツしたものは
釣ったというよりも単に引っかかったアナゴとナマコ

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今日は午後から雪が降り始めた
釣りの予定が昨夜でよかった~~!

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日々の暮らし | 19:42:55 | Trackback(-) | Comments(5)
善か悪か ~おわりに
<4の補足>

夫の世代は本当のケンカを知っている年代だ
言葉よりもコブシに聞け!というのが男のケンカであり
どこを殴れば相手に効率的にダメージを与えるのか
どこが急所で、どこは殴ってはいけない等、経験的に知っている
こうして体が自然に覚えていると
怒りにまかせて相手を再起不能にするような無茶はしないらしい
だが、ケンカを知らない若い世代ほど経験がないため
感情的になれば限度を越えてやりすぎてしまう危険性がある
特に最近はすぐにナイフなどを出してくるからたちが悪い
そして最後には取り返しのつかないことになってしまうことも・・
このように、ケンカや体罰を知らない人は
体が痛みを知らない分かえって怖い場合もあるのだ
だから夫は、息子が中学生の頃までは
問題ありの言動や、これはそのままじゃすまされない!という状況を見計らって
何度か教育のために殴っている
言葉ではなく、体に直接聞かせるのだ
これを見た娘は、おろおろして「ねえ、もうやめようよ」と父親に言ったが
「お前もやられたいかっ?!!」と一喝され
その場をすっ飛んで逃げ出した経験がある
それ以来、その様子を遠巻きに眺めながら
自分は殴られることはなくても、その痛みを気持ちで共有しつつ
父親がなぜそうするのかという意味をちゃんと理解していった

家庭教育は本音勝負の実物教育だ
社会や学校は理想的なきれいごとしか教えられない
だから家庭が汚れ役を担うのだ
それができるのはひとえに子どもへの愛あればこそだろう

子どもから良い父親だと思われようなど
夫には元々そういう気持ちは毛頭ない
だからやるぞと決めたら躊躇も遠慮もなしだが
結果的に子どもたちはずっと父親を信頼して今に至っている
本音でぶつかるからこそ、お上手や嘘がないのが伝わるのだろう
いざという時には必ず守ってもらえる、何とかしてくれるとの絶対の信用がそこにはある
また、得意な遊びやおもちゃの修理などの特技を通して
昔から父親の株は母親よりも数段格が上なのだった

一方、無理に良い親を演じている人ほど
いざとなった時には感情のコントロールがきかず
言動が支離滅裂になって子どもから信用されなかったり
体罰もつい限度を越えてしまい、その記憶がトラウマになったりする傾向がある
近年よく体罰が問題視されるが
問題なのは体罰ではなく親の感情の方なのだ
日常的に不自然なことをやっていれば気持ちに余裕がないのは当然だ
人間はそんなに強い生き物じゃない
この現実はもっと真摯に受け止められるべきだろう

同様に、事の善悪を追求しすぎることもまた
気持ちの余裕をなくす原因になる
正しく生きようとすればするほど息苦しい
何のためにそこまでこだわるのだろうと思う程
わざわざ狭い生き方をする人は後を絶たないけれど
そこにもちろん理屈は色々あるのだろうが
多分かつてのわたしのように、“負けたくない”というのが本音なのかもしれない
負けることは自分を否定されることだ
自分を認めて欲しい
それは同時に
寂しさからの開放と、愛されたいとの願いでもある
人間の問題行動の影には
いつもこうした行き場のない感情が渦巻いている

善か悪か
その問題は常に表面的な部分でしか議論されないが
根底にある人間の弱さや醜さから目をそらしての議論では意味がないだろう
武器があるから戦争が起こるわけではないのだ
自分にとって不都合な人がいるから必ず不幸になるわけでもない

もっと素直になれば色んなものが見えてくる
見えれば問題解決の糸口もつかめるだろう
人生はもっともっと楽しくなるはずだ

日々の暮らし | 20:18:23 | Trackback(-) | Comments(2)
善か悪か 4
つい先日のこと、夫と話をするうちに
“そんな時代もあったねと、いつか話せる日が来るわ”・・と
お互いが中島みゆきの歌を思い出して思わず苦笑した

今思えば、あの頃わたしたちを悩ませた喧騒は何だったのだろう
最も殺伐とした時代からすでに16年が経ち
考えることも思い出すこともしたくないと無理やりふたを閉じた記憶も
今はまるで第三者のような目で冷静に見ることができそうな気がする

誰かの正義のために、別の正義が犠牲になる
そういう理不尽な現実が世の中にはしばしばある
これは戦いの原理だ
戦いとは、お互いが守りたいものを守るために
そして、その守りたいものが違うために起こるもの
この場合、どちらの正義も互いにとって正義であり
相容れることもなければ
引いた方が負けて悪となる
だから負けたくなければ自分の正義を真と信じてとことん戦うのだ
それによってどんなに犠牲が出ようとも
犠牲が増せば増すほど
これまでの犠牲に報いるべく戦いは更に熾烈になる

16年前はちょうど暗黒の介護時代の真っ最中でもあり
夫もわたしも心身ともに疲れきっていた
そこへたたみかけるように次々起こる理不尽な出来事
それでもきっと夫が助けてくれるだろうと期待する一方で
それまで正義だと確信していたことが通用しない現実に
一体何が正しくて何が間違っているというのか
わたし自身は思考が混乱状態になっていた

正義が勝つなんて嘘なのか・・

そう思ったわたしには
たとえ勝ち目はなくとも
徹底的に戦うことしか考えられなかった
黙って屈辱の中で生きるよりは
後先考えずに自爆した方がずっとマシだと思えたのだ
当時はまだ若かったし
どこまでも正義を振りかざしていけば
きっと神さまが味方してくれるはずじゃないか
そうじゃなくちゃおかしいじゃないの?!と
まるで天に向けて問い詰めるような思いでもって
わたしは夫も一緒に戦ってくれることを強く望んだ

ところが意に反して夫は全く戦おうとしなかった
一度だけ与えられた弁明の機会もただ淡々と事実を述べたのみで
攻撃をかけるようなそぶりも一切なし
その余りに冷静なやりとりに拍子抜けしたわたしは
燃え盛る怒りの炎を消火器で消されたように
ただ沈黙せざるを得なかったのだった

「話の通じない相手とは戦わないで距離を置く」
それが夫の鉄則だ
夫は普段、自分にしか関わりのないことであれば
理不尽な事柄について毅然と対応し
自らがどう思われようが恐れることもなく戦う人だ
実際に2、3年前、繁華街で突然意味もなく若い男に殴られた時も
間髪入れず殴りかえして追っ払っている
しかし
どんなに心のそこから怒っていても
後先考えずに無茶な行動することはまずない
怒れば怒るほどいよいよ冷静になるところがわたしとは全く反対だが
それでももし無茶をすることがあるなら
それは後の結果まで冷静に見極めた上で絶対必要と感じ、確信的にやっているのだ

子どもの頃から理不尽な思いをする経験を積んできた夫は
ただ正義感だけで世の中が渡っていけるなど
そんな甘い考えは持っていない
わかりあえない相手とはどこまでも平行線のままだ
例えこちらが誠意をつくしたとしても
その誠意に感動して相手が改心するなんて滅多にあるもんじゃないし
向き合うだけで毒ガスを発生する「まぜるなキケン」の組み合わせもあるだろう
わたしはこの辺の認識が甘すぎた

「話の通じない相手とは戦わないで距離を置く」
それはいつしかわたしの鉄則にもなっていった

今思い返してみてもあれは本当に変な時代だった
人生なんでもありだなとしみじみ思う
だから、今は何があってもあまり驚かなくなったし
自分が理解されようとも思わなくなった

あの頃のわたしは
多分「負けること」が悔しかったのだと思う
本当にたくさんの負けを経験してきたけれど
ではそのために具体的に何を失ったのかと考えてみれば
当時わたしが恐れていたようなことは何も起こらず
守るべきものはみな守られ
結果的には何も失ってはいなかった
失われたものがあるとすれば
それはわたしのプライドくらいだろう

何はともあれ
夫もわたしもこうして今も生きている
いや、生かされていると言った方が正しい
そうでなければ今の平穏な日々は何だろうか
そして、この事実がすべての答えだ
あの時信じていた正義も
また選んだ道も間違ってはいなかった・・と

あれからすでに長い年月が過ぎ
人間的な意味での名誉の回復の折はすでに失われた
では、あの無茶苦茶な出来事をすべて許したのかといえば
そんなことはないと思う
だからといってその恨みのために一歩も進めないようなこともない
ただ漠然と心に残るのは
ひとつの「時代」を確実に越えたという実感だ

普段どんなに立派な発言をしていても
いざという時の行動で人の評価はなされるものだ
表向きの良い人も、事と次第によっては豹変し
善人が一転して殺人者にもなる
これが人間の現実の姿だ

あの理不尽な出来事に対してどうして夫が戦わなかったのか
以前その答えを求めた時、夫は言った
「多分、臆病だからだろうよ」
その返事があまりに“夫らしくない”じゃないかとわたしは思ったが
大切なものを失わないために
臆病である必要は確かにあると納得する
臆病であるうちはとりあえず間違いを犯さないから

一方で
“勇気と自殺行為は違う”
そんな言葉が頭をよぎる
誰も守れない、何も生み出さないような特攻なら
ただ犠牲が重なるだけだ

生きるということは決してきれいごとではない
だから辛いのだ
現実を見ることも、冷静に分析することも・・
それでも、直視しなければ生きてはいけない
あまりに美しくない現実であったとしても、だ

2で引用した聖書のみことばに登場するあのあくどい支配人の姿は
この現実の中でもがきながら生きる人間のひな形なのだろう
彼は自ら起こした横領事件で主人から解雇されることになった
だが、彼がそうするに至った背景や心情は定かではない
今の時代にあってもさまざまな事件がある
「欲に目がくらんだ」「魔がさした」「ああするしかなかった」と
常識的には受け入れられない理由でもって人は簡単に道を踏み外す

そんな支配人が自ら生きるために次に選んだ方法もまた不正であった
そして、その支配人の不正行為によって助けられる負債者たち
更にそれを良しとする主人
彼らの間に成り立つ不思議な均衡
何が善で何が悪なのか、そこには人間の常識を超えたものがある

実際にわたしたちは食べ物にしろ環境問題にしろ
みな他の何かを犠牲にしながら生きている
そんな人間に100パーセントの善人などいるはずがない
この世は不思議なバランスの上に成り立っているけれど
誰かが押し、誰かが引いて均衡が保たれている
引いた者が単純に負けなのではない
そこはただ単に損得だけでは計れない世界でもある

普段、教会に持ち込まれる相談事の大半は人間関係だ
「わたしは間違っているでしょうか?!」
そう問いかけてくる人のほとんどが
「いいえ間違っていませんよ」との答えを切望している
だが、その最終判定は神の領域だ
ならばわたしたちにできることは
燃え上がる怒りの炎で自滅する前に消火器を発射することだろう

怒りの祈りは呪いに近い
持てる力をふりしぼって怒りに集中するところには
少なからず“悪意”が介入しているのが見える
それに当人は気づかないのが怖い
人は一見冷静に見えても、ひとたび感情をつつかれると一気に崩れるから
悪意に対抗するには知恵の言葉が必要だ

いざという時に潔く引ける人には安心感がある
「この人なら大丈夫」
お金で買うことのできない信頼とか人望とかいうものは
そういうところから培われるのだろう

事の善悪を追求し始めたら、もう何が何だかわからなくなる
神の領域に人間が勝手な答えを出すわけにも行かない
しかし、答えは遅かれ早かれ必ず出る
それを待ち望み、真摯に受け止めて行きたいと思う

日々の暮らし | 20:12:03 | Trackback(-) | Comments(4)
善か悪か 番外編2
花粉シーズンを前に
今年も恒例の『つぼみ菜作戦』がすでにスタートしている
無農薬で育てた菜の花やブロッコリーなどの『つぼみ=花粉』を毎日少量ずつ食べ続けることで
体内に花粉の抗体をつくり
花粉に対するアレルギー反応を抑えようというものだ

実践からすでに数年が経過しているが
あれほど涙目ぼろぼろで大変だった夫の花粉症も今は随分軽くなった
”花粉で花粉を制す”方法はアタリみたいだ
そう、これは妄想でもなんでもないちゃんとした結果なのだから言える事だけど
誰にでも効果があるのかどうかはわからない

以前は効果を信じなかった息子も
今は一緒につぼみ菜を食べている
でも基本的にはあまり好きじゃあないので放置されていることもある
昨日も残しそうな気配がしたので先手を打った
「ちゃんと食べて花粉に対する免疫をつくらないと」

はいはいと仕方なく食べながら
息子は突然ひらめいた案を話し始める

「花粉で免疫できるんだったら
ゴキブリのエキスを注射器でちゅーって吸って手に注射したらさ
こっちのゴキブリ嫌いにも免疫できるかな~~?!」

おぉぉぉぉいっ、、やめてくれそんなそんな(うぐぐぐぐ)、、、以下絶句@@;;;;

予想通りのわたしの反応に満足げに息子は更に続ける
「ゴキブリだけじゃなくてついでにネズミとか虫とか色々混ぜたらもう最強人間の出来上がりだよ!^^v」

思わず想像してわたしはつぶやく
「何かそのうち触覚とか尻尾とか生えてきそう・・・」

それは素晴らしいとばかりに息子は返す
「足も速くなるよ~、カサカサカサ、、とかってね!!」

以上が、バイトへ行く前の息子一人夕食時の会話だ
いや、もっと何かあったような気もするが
どうせロクな内容じゃあないので覚えていない

で、ここに夫が加わるともっとすごい話になるだろう
夫と子どもたちは3人とも先天性左利き&血液型はB型だ
このパターンは世間的にはとっても変わり者みたいに評される向きもある
(真偽のほどは定かではないが、まあ当たらずとも遠からずか?!^^)
その日常会話の半分はジョークで構成されているかもしれないし
それもしばしばかなりシュールだ
一方ではすごく真面目な話もするのに
気がつけばいつも変な方向に話がなだれ込んで終るのが常
ま、いってみれば家族ゲームのようなもんだけど
それでみんなが結果的に楽しければOKノープロブレム

とまあ、普段からこんな生活をしているものだから
時々ジョークというものが通じない人に出会うと
おぉぉっと調子が狂う
ジョークの許容範囲は人それぞれだし
どこまでOKでどこからNGか
その善し悪しの線引きは実に難しい

善か悪かの問題が複雑なのは
個人の許容範囲による感覚の差が大きいというのも一因だろう
「これしかない」と決めつけてしまったら
どこかで息が詰まりそうだけどなぁ、、、

日々の暮らし | 23:08:01 | Trackback(-) | Comments(2)
善か悪か 3
今朝、息子はいつもより1時間早く起きて新聞を取りに出たらしい
何のためかと問えば
「センターの物理をやるんだよ」

昨日は大学入試センター試験の2日目で
数学と理科の試験が実施された
「物理は高校生に負けられないから」と言い
息子は無言で新聞に向う
なんだ、一応プライドらしきものを持ってるのね(笑)

で、しばらくせっせと問題を解いていたかと思えば
突然動きが止まる
「・・・面倒くさくなった」
ははん、行き詰ったな(苦笑)

「やっぱり公式を随分忘れてるなあ」
まあ、あれからもう一年経っているし
受験が終れば覚えたことも忘れてしまうのは常だが
そういえば入学後初めての授業でこんなことを言われたと
息子が話していたのを思い出す

『大学の物理を勉強する上においては
高校で覚えた物理の公式は一切忘れてください』

そりゃまたなんで??と息子に聞くと
「大学では公式を使った勉強じゃなくて
公式を導き出すための勉強をするから
はじめから公式が頭にあるとマズイらしい」
ということだった

そう言われればなるほどと思う・・が
じゃあ高校での勉強の意味は何なのよ?!
それまで積み重ねていくことが勉強だと信じていたわたしにとって
一度覚えたことをリセットするようなやり方は不合理極まりないと思えた

物理に限らず
日本の大学の勉強は高校までの勉強と一線を画しているものが多いようだ
大学は専門性を高めるところだからといってしまえばそうなのだが
ならば義務教育ではない高校からでもすでに専門性を重視していけば
一番頭の回転する10代の内にもっと合理的に勉強ができるだろうに・・
でも、現実にはその一番良い時代を受験に割かざるを得ないのだ

今日、日本の教育体制は色んな方面で行き詰っている
毎年様々な改革が実施されるものの
改善よりも混乱をもたらしている事の方が多いのは
改善を試みる人々の感覚がみな異なるからだ
かくして改善を求めながら改悪につながるこの皮肉・・・
では一体どうすれば本当の改善といえるのか??

ある人の案が採用されれば
意見が対立する側の案は切り捨てられる
ただ今国会はガソリンを25円値下げするかどうかでもめているけれど
下がれば下がったで嬉しい人もある反面(わたしはもちろんこっちだが)
いろいろな方面で困る人も出てくる
では一体どちらを助けるのが正義なのだろう??

事の善悪に対する感覚は
生まれ持った正義感というのもあるのかもしれないが
育つ環境下での後付の知識、つまり親からすりこまれるものも多い
また、それぞれの立場によっては
ある人には善と思えることも、他の人には悪になることもある
良かれと思うことすべてが、すべての人に益となるわけではない

例えば
困った人を助けるのは善である
だが
助けられた人が、これから先も助けてもらうことを前提に
ただ依存して、自ら良くなるための努力を怠るならば
助けたことは善だと言えるのだろうか

人を助けたいとの思いに至る心情も
そのためにとる手段も、過程も色々あるだろう
だが、わたしがここで言っているのは結果のことだ
どんな行為にも結果がついてくる
その結果で、行為の善悪の評価は違ってくるが
時を待たなければ結果は誰にもわからない

1979年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは
「世界平和のためにわたしたちは何をすればいいでしょうか?」との記者の問いに
「家に帰って家族を大切にしてあげてください」
と答えたという
更に、日本初来日時には
「日本人はインドのことよりも
日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。
愛はまず手近なところから始まります」
と語っている

文字通り、その生涯を貧しい人々の救済のために捧げたマザー・テレサだが
今もって世界から貧困がなくなる兆しは見られない
貧困のシステムはとても複雑で
ただお金や物を差し出すだけでは到底解決しないからだ

これはもっと根本的なところから改善しなければ・・・
そんな切なる思いが彼女の言葉から伝わってくる
これは
気まぐれの善行ではなく、本当に心から尽くしてきた彼女だからこそ感じる
素直な思いなのだろう
いつの時も体験者の言葉には重く響くものがある
実際にやってみてどうなるのか
その結果こそが、行為に対する答えだからだ

わたしたちが善だと思ってやっていることでも
もしかすると
目を向ける先が間違っているかもしれないし
モノの見方そのものも、根本から間違っているのかもしれない
また、同じく世界平和という目的を持ちながらも
それぞれ手段が違えば
手段のために熱心になり
いつしか目的を忘れて争っていることもある

ともすれば善という言葉に
なにか壮大な美しさばかりを追い求めていないだろうか
“世界”とは遠くにある国のことをいうのだろうか

「小事に忠実な人は大事にも忠実である
そして、小事に不忠実な人は、大事にも不忠実である」

2で引用した聖書の言葉がここで重なってくる


                                       (つづく)

日々の暮らし | 19:32:49 | Trackback(-) | Comments(2)
善か悪か 番外編
『善か悪か』の完結編として3を書きかけながら
どうも上手く進まないのでひと休み~

ネット上には様々な「面白ツール」があるが
そのうちの”脳内メーカー”というのが
すごくバカバカしいのだがちょっとツボにハマっている

 脳内メーカー ←こちら

これってサイト注意書きにもあるように

脳内メーカーは占いでも診断でも無く、
あくまでお遊びのジョークツールです。
脳内メーカーには字画などの占い的要素や、
統計学などの学術的要素などの根拠は一切無く
入力された文字列からランダムに結果を弾き出しているに過ぎません。


というものだ

ただ自分の名前を入力するだけで自分の脳内がどういうもので占められているかわかる
なーんて、ホントにそういうものがあったらすごい!
というか、これが本物だったら怖い!@@

もう何が怖いといって
わたしの結果はコレですよ、、、

  ↓



  ↓



  ↓



  ↓

じゃあ~~~~~ん!!

kiminounai.gif


うはははははは、、、、もう思わずのけぞってしまいましたわ?!!^^;;;

その後、あんまり可笑しかったものだから
ついでに家族の名を次々入力してみたら
うちの家族は強欲か変態ばっかりだということになった(激爆)

それにしてもこんなものを考える人の脳内こそのぞいてみたいものだが
もし本当に人の脳内が見えるようになったら・・・
いやいや
すべてをお見通しなのは神さまだけでいい。。

日々の暮らし | 19:14:30 | Trackback(-) | Comments(5)
善か悪か 2
事の善悪について
人が一般的に持っている感覚とはちょっと離れた記述が聖書にはある
その意味するところは何なのか
長年の疑問を、昨年思い切って大先輩の先生に尋ねてみたところ
なるほどと思えるヒントを頂くことができた
これはルカによる福音書16章の1節から始まる例え話だ

*****

あるお金持ちの主人に雇われている支配人の不正経理が発覚した
主人は彼に会計報告の提出を要求するとともに、解雇通告をする
クビになると知った支配人は今後の自分の身の振り方を心配する
「どうしよう、土を掘るには力がなく、物乞いするのも恥ずかしい」
(↑このセリフは実にリアルだ)
そこで彼はある案を思いつく
この主人はお金持ちなのでたくさんの人々に貸しがあった
それで支配人はその負債者たちを呼び集めて
彼らの借用証書の負債額を勝手に減額する不正処理を行ったのだ
こうすることで支配人は負債者たちに恩を売り
職を失ってからは彼らがきっと助けてくれるだろうともくろんだわけだ
ところが、この不正な支配人の利口なやり方を主人は誉めた
そして更にこう続く
「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい
そうすれば、富がなくなった場合、あなたがたを永遠の住まいに迎えてくれるであろう
小事に忠実な人は大事にも忠実である
そして、小事に不忠実な人は、大事にも不忠実である
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら
だれが真の富を任せるであろうか」

*****

人間的な常識で考えれば
利口というよりも汚いやり方だと思える方法を主人は誉めた
聖書の例え話に出てくる「主人」とは神の雛形だ
だからここではこのやり方を神が誉めているということなのだ
なぜ??・・・うーん、、、さっぱりわからん・・・・
というわけで長年放置してきたわけだが
ある先生からのヒントで、一気に光が見えてきた

~以下、ヒントとなる話の概要~
ここでポイントとなるのは「不正の富」という言葉だ
お金そのものは無機質なものだから
「きれいなお金」も「汚いお金」も本来お金としての区別はない
お金がきれいになったり汚くなったりするのは
あくまでも使い方によって人が感じる主観によるものだ
むかし戦後間もない時代には、いわゆる闇市というものが存在しており
そこでは常に不正な売買が横行していた
人間的に考えれば、不正な手段で得るお金は汚いお金ということになるだろう
ところが、その汚いお金なくしては多くの人々は生きることができなかった事実がある
不正は不正だとわかっているが
きれいごとだけでは人は生きていけない
そんな汚いお金は要らないと断るのは格好はいいけれど
本当に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされたら
たとえ不本意であっても、生きるために汚いお金を手にすることは
仕方のないことだろう
実際に自分がその立場になったらと考えれば
誰もそれを責めることはできない

ここで先ほどの聖書に戻ってみる
職を失った支配人は自分が生きていくために不正を行った
この時の彼自身の本心は
多分、ただ自分が生きることだけを考えていたのであろうが
結果的にはたくさんの負債者を助けることとなっている
つまり、自分も生き、負債者も生きる「全員生存の道」を選択したわけだ
ここで一番損をするのは主人だが
元々お金持ちなので損をしたとて大したダメージはないと思われる
(何と言っても支配人のやり方をほめているくらいだ)
一見汚いやり方に見えるこの不正劇
どう見ても善人とは思えない支配人ながら
最低限みんなが生きるためのポイントを押さえているところに
「小事に忠実」との評価があるのだろう
とりあえずはみんな生きなくてはならないのだ

もし支配人がもっと利己的な方法を選ぶなら
たとえば主人のお金を奪って逃走するとか
あるいは別の人々に対して罪を犯すかもしれない
また、みんなが生きるどころか
自暴自棄になって人を殺し、あるいは自分も死んでしまう「全滅の道」もある
生きることは、命を与えられた人間に課せられた義務だが
その義務を果たすための行為を
人間的な思いだけで善悪の判断を下すのは難しいと思う
これは神の領域だ
そして、それが正しいのか正しくないのかは
その後の結果として必ず現れてくるだろう

不正の富によって生かされた支配人はその後どうなっていくのだろうか
無意識のうちにも最低限の「小事に忠実」であった彼は
やがてその心が変えられて「大事にも忠実」となる可能性を秘めている
その道筋は「永遠の住まい=天国」に通じるものだ
そこではもう「富」に左右されはしない

聖書は本来「罪びと」「病める人」のためにあるものだがら
どうしようもない程(人間的に)最低の状態からでも
どう変わっていくのかは未知数だ
そんなのは人が勝手に図れるものではないだろう

聖書の(キリスト教の)イメージというのはどうしても「きれいごと」が先立ち
偽善的だと思われている傾向がある
ところが、聖書は実に現実的だ
神は人間の心の中をすべてお見通しなのだから
いろんな意味で清く正しい人間など最初から期待されてはいない
だから聖書の本質を知っている人は安心するのだ
自分にも生きていく道があると

これは聖書とは関係ないが
善と悪についてこんな話をきいたことがある
『善と悪を漢字で書くと、悪には心がある。善には口しかない。』
心のある悪と、口しかない善
一見悪いことのようで、実は人を生かすものもあれば
いかにも良いことを言っていても、口だけで人が生きない場合もある
どちらを選ぶかと聞かれれば
とりあえず口だけの偽善者にはなりたくないと思うのだった

日々の暮らし | 16:03:57 | Trackback(-) | Comments(2)
善か悪か 1
先日、一日40鉢のバラ鉢植え替え作業に没頭している最中
学校帰りの小学生の女の子が話しかけてきた
ここは毎日たくさんの子どもたちが行き交う通学路なので
こうして庭にいる時に話しかけられることは結構あるのだ

「こんにちは」
その口調が何だか妙に礼儀正しい
「何をしてるんですか」
「植え替え」
「・・・?(意味がわかっていない様子)」
「根っこがこんなに伸びているから切ってもう一度埋めるの」
「どうして?」
もう少し丁寧に説明してみるもののどうもぴんと来ないようだ
最初はこの作業の根拠について説明を求めているのかと思ったのだが
論点がちょっと違うらしく、話は平行線のままだった

これはちょっとやっかいだな・・・
わたしは時計とにらめっこしながら作業している
こういう時は職人モードだ
実際のところ話しかけられることすらわずらわしい
でも、怖いおばさんになるわけにもいかないだろう
何しろここは教会だし・・・と
気を取り直して相手をする

伸びすぎた枝を整理していると
「何で切るんですか」
「切っておくと春になったらまた新しい枝が伸びるからね」
どうやらこの子はわたしが鉢をひっくり返したり
根っこや枝をバサバサ切るのが野蛮に見えているようだ
お花がかわいそうとでも言いたいのだろう

次に古い葉っぱをむしり始めると
「何でむしっちゃうんですか」
「古い葉っぱは冬の間に取っても春に新しい葉っぱが生えてくるから大丈夫」
しかし、明らかに納得がいかない様子で
今度はとがめるような口調で言った
「全部むしらない方がいいと思うんですけど」

その時わたしの中でスイッチが切り替わった
それ以降は無言でわき目もふらず作業を進める
子ども相手にムキになる必要もない
言ってわからない相手とは距離を置く、それがわたしの鉄則だ
そのうちこの子の姿は消えていた
やれやれ、大人でも子どもでも正義感の塊みたいな存在は疲れる

鉢植えのバラは、というか植物全般に言えることだが
通常冬の休眠期にこうして植え替え作業を行う
活動期に伸びた根っこが鉢全体にまわったままで放置すると
そのうち根は行き場を失って根詰まりという現象を起こす
これはバラにとって死活問題だ
また、古い枝を整理することで新しい枝に養分が集中して送られるようになり
古い葉っぱをむしりとる事で、葉っぱについた病原菌や虫の卵を除去することができる
つまりこれらはすべてバラを“生かすため”の作業なのだ
だが、意味を知らなければそれは単に野蛮行為にしか見えないのだろう

翌朝、まだ残っていた5鉢を植え替えながら
あと2ヶ月もすればバラも活動を開始し
同時に病原菌や虫の活動も始まるなあと考えていた
そのための対策は特に秘策も何もないが
相変わらず農薬の定期散布を行う予定もない
例年通り、虫を見つければ手で捕殺し
病気が出れば病原菌に対抗すべく
EM菌や乳酸菌や納豆菌などの微生物資材を使って対抗する
バラの病虫害をこれら人為的なことで完全に抑えこむのは不可能だとわかっているので
あとは自然のなりゆきにまかせることにする
やっていることが正しいのかそうでないのか
すべては自然が答えを出すだろう

そして、同時にバラ自身が強くなる方向での試行錯誤も続く
人間が鍛えられて強くなるように
バラも過保護にしないで強く育てたい
しかし、その加減もまた自然が答えを出す
それをわたしはずっと待ち続けている状態だ

化学農薬の使用については、はじめのうちは効果があるが
そのうち菌や虫に耐性がついてきて
もっと強い薬剤でなくては効果がなくなってしまうというのが困りモノ
こういうのは
どんどん強力な科学兵器開発を続けても
いつまでも戦争は果てないことに似ている
戦争とは
お互いが自分の守りたいものを守るために起こすものだ
どちらが正義で、どちらが悪なのかは
お互いの主観によって真っ向から対立し、相容れるものがない
バラを守りたいわたしにとって、バラを食害する虫や病原菌は悪だが
生きるために必死な彼らからすればわたしの方が悪だ
だが、バラを生かすためにわたしは潔く悪になる

事の善悪を云々言い始めたら
人間ほどたちの悪いものはない
地球環境がどんどん悪くなっているのはすべて人間によるものであり
今の便利な生活を捨てない限り改善の見通しは真っ暗だ
そして、その便利な生活の恩恵を受けているわたしたちはみな
自分を正義だとは到底言い切れない

あの少女が不信感をあらわにした植え替えられた鉢バラは
春になれば新しい新葉を展開し、5月には美しい花が咲くだろう
それがわたしの行為の結果であり、自然の出す答えだ
事の善悪の如何を決めるのは人ではなく神の領域
そこには人の善悪の感情を越えた広く長く深い世界がある

日々の暮らし | 23:22:59 | Trackback(-) | Comments(4)
バラ仕事始め
今日は予定通り鉢バラをひっくり返して植え替える作業を行った
ほとんどが6月に鉢増しして植え替えているので
まずは今どの程度根が張っているのかを確認すると
ふたまわり大きな鉢に植え替えたものも
鉢全体にだいたい根が回っているようだ
このままではまたバラシーズン中に根がまわりすぎ
植え替えしなくてはならなくなるだろう
もう2年連続でシーズン中の植え替えをやっているので今年は適正な時期に戻したい

uekae109-5.jpg uekae109-3.jpg

uekae109-4.jpg uekae109-2.jpg

今回の根張り具合を見ていると
ここ2年続けて使用している配合土”ボラ土+ピートモス+パーライト+バーミキュライト”は
かなり相性が良いようだ
特に赤玉土をやめてボラ土にしたのは正解で
赤玉土だと一年で粘土のようになってしまうところがボラ土だと全然崩れない
よって鉢土を崩すと簡単に配合土はバラバラになり
まるで配合仕立てのような状態のまま残るのだった

これなら一度崩した土でそのままもう一度埋め戻すことも可能だと思える
鉢バラの植え替えをする際に最も問題になるのは
新しい土を買う費用と、古い土を再利用するまで置いておく場所の問題だ
この両方の問題が一気に解決するならと
今回は『古い土ですぐ埋め戻す作戦』を決行する
なお、古い土にはヨウリンを混ぜてEM菌醗酵液をかけて使用した
気休めかもしれないけれど
こうして古い土の中の病原菌に少しでも対抗できればと思ってのことだ

なお、根の周りの土は半分くらいほぐして
長く延びた部分だけをバサバサとカットする
わたしは基本的に”根洗い”はやっていないが
まだ根頭ガンシュ病は出たことがないので
いちいち根っこをむき出しにしなくていいかなと

バラ栽培も8年目となり
毎年色々なやり方を試みてきたが
今年のキーワードはズバリ『勘』
今までの経験をふまえた上で
「行けそう」と思ったことを躊躇せず行うことにする
考えすぎて、時間ばかりを無駄に消費するのは今年はやめにしたい

で、このところの闘魂モードで一気に今日は40鉢を植え替えた
所要時間4時間、計算すると一鉢6分となる
枝や根を整理することを考えれば結構なハイスピードだ
久しぶりのバラとの格闘はやっぱり気持ちがいい~

uekae109-1.jpg


バラ2008 | 20:29:57 | Trackback(-) | Comments(4)
燃える闘魂
yabukouji106-1a.jpg

年末から続いた寒さもすっかり一段落し
このところ穏やかな日々が続いている
昨日からは学校も始まりまたいつもの日常がスタートした

先日、息子の元に通販で買ったジャケットが届いたので
「着て見せてよ」というと、すぐに着て部屋にやってくる
カーキ色でダブルボタンのトレンチ風ショートジャケット
それを見てわたしの第一声は「おぉ~、地球防衛軍の服みたい♪」だった
その感想が想定の範囲を超えていたのだろう
息子は思わず「あぁん?」と呆れたような顔をして「何かの見すぎじゃないの」と笑った

そう、確かに「何か」の見すぎだと思う
実はこのところ動画サイトで懐かしい70年代のアニメの発掘にハマっている
それも中心は科学系戦闘もので
考えてみればわたしの青春時代に乙女チックな趣味は皆無だったなあと思う
同じ頃「ベルサイユのバラ」とか「エースをねらえ」とか少女マンガの王道が随分流行っていたけれど
どうもこういうのは趣味に合わなかったようだ

そう、わたしの趣味を一言で表すなら
アントニオ猪木のキャッチフレーズである“燃える闘魂”なのだ
高校時代はプロレスにもハマっていて
当時まだ若かりし藤波氏のスピード感あふれる空中殺法に狂喜しながら
花の女子高生(←死語)が駅の売店でスポーツ新聞をこそこそと買ったりもした
あれはもうとっても恥ずかしかったが
今のようにネットで情報が拾える時代ではなし
あとはプロレス雑誌を立ち読みしたり・・くらいしか情報収集方法はなかったのだ

でもって、聴いていた音楽はロックだし
今でもやっぱり時々ハードなものを聴いていないと
エネルギー切れを起こすような感じがする
今は子どもたちもバリバリのハードなスピードメタル系を好むようになり
新しい音源を発掘してきて聞かせてくれるようになった
いや~、実に素晴らしい教育の成果か?!

一方、クラッシックも大好きで
息子はこのたびラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のCDを購入
この曲はわたしも学生時代に随分聴いた懐かしい曲だ
情熱のピアノは聴くだけで元気が出る
こういう曲を弾く時、きっとピアニストはピアノと一体化しているのだろう
この曲を聴いていたら
今度は急にアランフェス協奏曲が聴きたくなった
情熱と哀愁のメロディを奏でるにはギターは最強
で、息子にさりげなくリクエストしておく

そういえば
なぜ急に動画サイトにハマることになったかというと
きっかけは9月16日の日記にも書いたLED ZEPPELIN再結成コンサートの様子をチェックしたことだった
2万枚のチケットをめぐって世界51カ国から9000万人が応募したこのコンサート
チケットの不正売買を防止するため
当選者は当日会場で本人確認の身分証明書提示の上チケットを手渡されるという
かなりの厳戒態勢だったらしい
また、一部チャリティーオークションに出されたチケットは
なんと1枚が1000万円近い値段で落札されたという
そんな恐ろしいまでの期待を背負って
60歳を越えたロッカーが一体どこまでやれるのか
やはりファンとしてはかなり心配だったのだ

そんな空前のチケット争奪戦をくぐりぬけてコンサートに行くことができた友人の情報によれば
当日のカメラ類の規制はあってないようなもので
もう撮り放題だったというから驚きだ
これは行くことのできなかったファンへのサービスなのだろうか?!
おかげで動画サイトにはすぐにコンサートの様子がアップされ
翌日には125分間のコンサート全曲をチェックすることができた
肝心な演奏の出来だが
これがもう想像以上に素晴らしくて
世界のロック史上に残るところの誇りと威厳をかけた戦いは
辛口の音楽評論家をもうならせる結果で終った
おかげでわたしは毎晩夜更かししては
もっと良い状態の画像音源を求めてチェックしまくる日がしばし続いたのだった

それにしても
「動画サイトにハマると無駄に時間くってやばいよ~」と以前息子が言っていたように
ホントいいかげんにしておかないと寝不足になりそうだ
それに気分もバラモードに切り替えなくてはならない時期だし
他に“宿題”も色々待っている

というわけで
何となく燃える気分の幕開けとなった2008年
昨今は“萌える”という表現が流行っているようだけど
わたしはストレートに“燃える”方がいい

さあ
明日から鉢バラをぼつぼつ引っくり返してみよう
やり始めたらきっと勢いで怒涛の植え替え作業が進む気がする

日々の暮らし | 23:04:09 | Trackback(-) | Comments(2)
A Happy New Year 2008 !
newyear4.jpg

新年明けましておめでとうございます
昨年末は所要が立て込んだ為に一時サイトを休止していましたが
今日からまた再開いたします
このサイトを通じて
今年も素晴らしい出会いと楽しい交流がありますように!

薄っすら雪化粧です
snow101.jpg


日々の暮らし | 22:36:18 | Trackback(-) | Comments(8)
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kimi

  • author: kimi
  • バラの咲く教会を夢見てから
    15年がたちました
    今も理想と現実の間で
    日々奮闘中です
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